第10回 人の役に立ちたいinカンボジア 山勢拓弥



 
 カンボジアの悲惨な歴史 カンボジア人が人口の約3分の1のカンボジア人を残虐した。つい30数年前の出来事である。一人の男の独裁主義の元、すべての人間を彼に従わせたかったために同族を3分の1も殺した。知識層、先生、医者、教養のある者をまだ幼い子供たちを駆り立て、部下を洗脳し、殺していった。何百年も前の出来事ではない。つい30数年前の出来事だ。

トゥールスレン収容所、キリングフィールドに行ってその歴史を見てきた。 殺された一人一人の写真も、収容された場所も、死刑現場も、死刑のときに飛び散ったであろう血も、すべて残されていた。独房に一歩踏み出すと空気温度が急激に下がり、重くなり、悲しみ苦しみの声さえ聴こえるほど生々しかった。彼がどのような気持ちで同族を残虐したのか、しえたのか、僕には皆目見当さえつかなかった。けれど、現実を見、実際に行われた現場を見て、僕は現実、事実を見ることができた。日本で3分の1の人間が短時間に殺されることは誰しも想像できないだろう。けれど実際にあったのだ。日本から飛行機で約7時間ほどの国で。






医学生ネアッ

  プロローグが悲しい現実から入ったが、カンボジアとはそういう歴史を持った国だ。僕はその国の「医者を目指している女の子」に会ってきた。シャイで、当時クメール語が聞けなかった僕が話すことは十分にできなかったが、彼女は片言の日本語でこう質問してきた。 「ママは元気ですか?千代さんは元気ですか?」 「元気だよ」と僕がいうと、うれしそうな顔で微笑んでくれた。 僕はカンボジアが好きだ。カンボジア人が好きだ。 お金をかけてでも、何度も足を運びたいという気持ちが湧いてくるのは僕がカンボジアという国を、人を愛しているからだと思う。




村IN CAMBODIA
  カンボジアの友人でムーンというとても親切で、優しい男がいる。カンボジア人、みんなとまではいかないが、なにか頼むにしても、ほぼ確実に「お金」を要求される。悲しいかなそれが現実だった。けれどムーンは違った。無償でどこにでも連れて行ってくれるし、村にも泊まらせてくれた。 今年の6月にカンボジアを訪れた際に決めたこと、カンボジア人になろう。僕は本気で彼らと会話がしたかった。そのために僕は本気で彼らと彼らの生活を共にした。スコールの中、ほぼ裸で田んぼに入り、手づかみでカニをとり、生で食べた。井戸水を飲み、アリが大量に入ったご飯を食べ、ハンモックで寝た。 最後には彼らは僕のことを「家族」と呼んでくれた。 どうみても少ないはずの食事を「おかわりは?おかわりは?もっと食べなよ!」と言ってよそいでくれた。 ただ単純にうれしかった。 食事をするという日本人にとっては当たり前のことを、彼らは十分にできていない。その中で、日本人の僕の食事を気にしてくれた。さんざん「ありがとう」と言ってきたつもりだが、もう一度会って「ありがとう」と叫びたい。






タイ国境を目指す
 カンボジアで休みの日を2日だけつくった。毎日が休みのようだが、本当になにもしない日を2日つくった。 休みの日の午前10時40分起床。起きてすぐに言った一言「タイの国境行きたい」。思い立ってから早い僕は20分で簡単な準備をし、ドル札、現地携帯をポケットに入れて、150km先のタイを自転車で目指した。 20km行ったところで喉が渇き、水を買おうとしたがドル札使えず断念。 50km地点で、フラッとしたと思った瞬間、自転車ごとぶっ倒れた。 死すら覚悟したが、死んではいけないと自分を奮いたたせた。よくドラマであるような、大切な人の顔が走馬灯の様に流れた…。気がした。 数分も経たないうちに、人の黒山ができ、水を持って来たり、食事を作ってくれたりした。 僕を救ってくれたのは、アメリカドル札でも、携帯電話でもなく、「人」だった。 感情があふれ出す カンボジアにきて2週間が経った昼下がり、止めどなく感情があふれ出してきた。 喜び、悲しみ、苦しみ、怒り、なんとなくだけど素直に受け入れられなかった感情共が僕の中で突然蠢きだした。感情が爆発して、笑いながら大泣きした。たぶんその場に居合わせた人は狂人を見るような顔をしていたと思う。 きっかけは1通のメール 「たとえ世界中のみんなが敵になっても、私は味方だよ。だから、精一杯生きてください。」 やっと、自分の素直な感情で動ける様になった。 嘘ではないし、偽ってもいないが、僕はある意味、我慢していたのだと思う。慣れない環境で、慣れないことの連続で、僕の中になかった初めての感情を理解するのに精一杯だったのだと思う。 泣き終わった瞬間から僕は生まれ変わった。というか、本当の山勢拓弥に生まれ戻った。 シェムリアップ州立病院 シェムリアップ州立病院に行く前に手渡されたマスク。最初、これになんの意味があるのか僕はわからなかった。病院に入ってから気が付いた。マラリア、デング熱、結核、その他さまざまな感染症の人たちが、廊下にあふれ、生気のない目で僕を見ていた。その場にいるだけで病気になりそうな、とよく言うが、ここではマスクなしでは本当に病気になってもおかしくない環境だった。 病院に入れる人はまだいいほうだ。診察を受けられるのだ。しかし、お金がない人は病院にさえいれてもらえない。聞いた話だが、お金がない人たちは、村長の「本当に貧乏ですカード」がないと診察してもらえないらしい。中途半端にお金があると、村長に「貧乏カード」を作ってもらえないのだそうだ。 一緒に病院に行ったカンボジア人が「医者はなんの為にいるの?」という核心的な質問をしてきたときは答えに戸惑った。格好よく「病気の人を救うためにいるんだよ」と言えればよいが、彼女が現実を見ている手前、そんな言葉はただの言葉である。真実味もなにもない。 何も言えなかった。


ホックサップ(遊園地)
 遊園地と書いたが、想像する遊園地とはかけ離れていると思う。実際に見ないとわからないと思うし、上手く言葉で説明できないのが悔しいが、ディズニーランドのような「夢の国」ではない。ここへは5人の日本人、2人のカンボジア人と行った。5人の中の日本人の中に西さんという人がいるのだが、この人が2人のカンボジア人の生活費を出している。2人のカンボジア人、9歳と12歳(?) の女の子と男の子だが、親はいない。彼らは兄妹だ。母親は男をつくり逃げ、父親は子供たちを残しタイへ行ってしまった。長男が家事から、お金工面まですべてやり、兄弟を養っていた。西さんが初めて会ったときは、ひどく厳しい顔をしていたらしい。僕には9歳の妹がいる。妹とその子を重ねてしまい、また泣いた。彼らは彼らの生活をしているのだから、かわいそうだとは思わないでおこうと決めていたが、やはりかわいそうだ。幼い子が親から見捨てられ、必死に生きている姿がありありと目の前に浮かんできて、耐えられなくなった。西さんをまるでお母さんのように見る、あどけない笑顔がとてもいとおしかった。



学校建設
  カンボジアの観光都市シェムリアップから北に約30kmのところに、コムルー村というところがある。道路整備もされておらず、雨がふると、人が歩いてすら入れなくなるような村だ。僕はそこの学校建設に約2週間かかわった。学校建設の隊長であり、僕の兄貴的存在である、服部記昌さんは学校建設をするようになったきっかけについて、こう語った。 「この村(コムルー村)の子供たちはこの村から離れた学校に通っています。大きな道路を渡って学校に行かなければなりません。しかし、学校へ行く際に年間2、3人の子供が交通事故で亡くなってしまいます。この現実を変えるために私はこの村の中に学校を建てたいと思いました。もっとも、違う地域ではもっとたくさんの人が亡くなっています。その人たちにやれることはないのかと思われることがあるでしょう。お金をかけるところが違うのではないか、と考える人もいるでしょう。しかし、ここでも2,3人の尊い命が亡くなっています。この現実を知ったからには私は無視できません。どうか、私に力を貸してください。」 この言葉を聞いたのは僕だけではない。毎日、入れ替わり入ってくるボランティアの人に毎日、毎日、同じことを30分くらいかけて話す。炎天下の中、ボランティアの人たちを日陰に、服部さんは日向に正座で、誠実にはなしていた。

僕はこの建設に関わるときに服部さんにこう話した。 「僕はこの学校建設に目標をもって取り組ませていただきたいとおもいます。僕は将来 カンボジアに教育の面で関わらせていただこうと思っています。そこで、毎日学校建設を見に来るこの30人くらいの子供たちにある教育をしたいと思います。ポルポト時代に失われた、モラル、ルール、規律などを教えたいです。個人的な話になりますが、僕は小学生のころ、体育が得意でした。体育を通して、僕は様々なことを学んできました。ルール、規律なども含めて、本当にいろいろなことを学んできました。 僕はこの学校建設を見に来る子供たちに、体育を通して、ルール、規律などを教育していきたいと思います。」 僕は最大の目標を「ドッチボール」ができるようになることとした。 小さな目標も決めたが、最終的に最大の目標は達成できなかった。土地のせいにしたり、時間のせいにしたりして、できないことを正当化しようとしていた僕がいた。試行錯誤しながらも、小さな目標は達成し、(これが一番大事なことだが)今もその活動は続いている。

 さて、小さな目標とは「ゴミ拾い」である。カンボジアに行ったことのある人はわかるだろうが、カンボジアにはゴミがあふれている。その理由にはいろいろ挙げられるが、挙げると枚挙にいとまがないので、触れないでおこう。 子供たちにただゴミ拾いをしろと言っても簡単にはしてくれない。そこで、僕は考えた。お菓子をあげよう。お菓子をあげて、ゴミをゴミ箱に入れる習慣をつけさせよう。この作戦は成功した。個人的に、ゴミ拾いをする子供たちまで出てきたほどだ。ここで問題となるのが、「大人」だ。本来、ゴミ拾いなど大人が子供に教えることだ。僕も実際、大人から教わった。カンボジアの大人は、平気でゴミを捨てる。文化の違いで仕方のないことだが、それが原因で病気になったりするのだから、大人から変えていってほしいと思う。今も、コムルー村ではゴミ拾いの習慣は残っている…らしい。微力だが、力にはなれたとうれしく思う。

  学校建設ではいろんな人と知り合って、いろんな話をした。みんな、旅の途中だったり、カンボジア観光をしていて、この学校建設の話を聞き、ボランティアをしているような人たちだ。力を合わせて、ひとつのことをすることは、やはり美しいことだ。

  僕は、一度コムルー村の子供にひどく残念に思ったことがある。激怒した。 学校の校庭に遊具を作っていたのだが、その遊具に雨具として、ブルーシートをかけていた。ブルーシートの中にネズミがいた。ブルーシートを外すと子供たちが集まってきて、手や木の棒でネズミを殺しているのだ。それを面白がって、日本人に見せる。慣れていない日本人は、怖がる。それが面白くて、ネズミを殺しているのだ。もちろん、食べれないネズミだ。 その様子を見て、僕は「日本語」で怒鳴った。「命を大切にしろ。ネズミだって、こんなに小さいけれど、お前らと同じ命をもっている。その命を殺してはいけない。」 もっと、優しく「クメール語」で言ってあげれば子供たちもわかったのだろうが、ただ怖い思いをさせてしまっただけだと反省した。 けれど、日本人が、日本語ですごい剣幕で怒ったのにはなにか訳があると思って、考えてくれる子供たちが一人でもいてくれればいいと思う。 文化の違いだが、命を、文化の違いだから仕方のないことだとあきらめることはできなかった。






ゴミ山
 前述したが、休みを2日とった。1日目はタイに向かった。2日目はゴミ山に行った。 シェムリアップから20分くらいのところに東京ドームくらいのゴミ山がある。 まるで外界から閉ざされた異国のようなところだった。車を降りた瞬間のすごいに臭いは鼻にこびりついて、離れなかった。 大人たちに混ざって、子供もゴミをあさっていた。ゴミからビンや缶を拾ってお金に換える「仕事」をしていた。 3人の子供たちに話を聞いてみると、親も兄弟もいるということだった。学校にもいっていた。では、なぜ彼らはこの仕事をしていたのでしょう。聞く気はなかった。 彼らは彼らなりに一生懸命生きています。 「産まれたところや皮膚や目の色で、いったいこの僕のなにがわかるというのだろうーTheBluehearts 青空ー」 この歌詞が僕の頭の中で流れていた。



日本はすばらしい
  カンボジアに行って毎回思うことだが、日本はすばらしい国だ。お金もあるし、毎日3食食べれるし、ゴミ山で仕事をする子供たちもいない。日本の素晴らしさは日本を離れてから実感できるようになった。この日本で育ち、愛を受け、教育を受け、いろんな経験ができたからこそ、他国の国のことを考えられる。日本という国の素晴らしさにはほとほと頭が下がる。脱帽する。僕はなにも持っていないが、なにかしたい。と誰かが言っていたが、少し違う。お金も持っているし、服もある。僕たちはなにかを持っているから、人になにかしたくなるのだ、と思う。恵まれた日本に万歳。BANZAI。



上杉健太
  僕の友達に上杉健太というやつがいる。学校の成績は良くないが、頭はいいやつだ。口もうまい。僕が何度もくじけそうになった時に支えてくれた。 ある事業に行き詰まり、一度電話したことがある。そこでこんなことを言ってくれた。

「その事業ができんなら、お前の力はそれまでやっていうことやん。高校生じゃねーけど、部活でつまずいたときも真っ直ぐ進んで壁ぶち破ってきたやないか。手綱がないと何もできんようなやつやねーやろ。真っ直ぐ突っ走れ。頑張ろう。」

こんなにはうまくしゃべってくれなかったけれど、だいたいこんな内容だ。 ここで、何が言いたいかというと、最後の「頑張ろう」という言葉だ。 なぜ彼は、「頑張れ」ではなく「頑張ろう」と言ったのか。彼は今は一緒に事業をしていない。その彼がなぜ「頑張ろう」と言ったのか。僕たちは高校生の時に、僕はサッカー部のキャプテン、彼は野球部のキャプテンで常に「頑張ろう」と言っていた。僕が思うに、「頑張れ」は後ろからかける言葉で、「頑張ろう」は横にいてかけられる言葉だ。彼は常に横にいて僕を支えてくれる。訳の分からない文章になったが、言いたいことは、「頑張ろう」ということだ。頑張って、日本を、いや、世界をいい方向に変えていこう。


ある一通のメール
  カンボジアにいるときに、古川一代ママから、一通のメールがきた。 本当の母親みたいなメールだった。身体の心配をしてくれたり、食事の心配をしてくれたり、もちろん本当の母親からもメールはきていたが、2人の母親はすごく心配してくれているのだとありがたくも思ったし、まだまだ、心配をかけてしまう子供なんだと思った。 古川ママがいないと、カンボジアには行ってなかったし、こんなに活動的にはなっていなかったと思う。本当の母親がいて、自分が存在し、強い身体をもらい、古川ママがいて、今の活動ができているんだと思う。自分は他人の中でしか存在できない。ほかの人がいるからこその自分だと実感した。 笑顔じゃないと カンボジア最後の日、カンボジア在住でSUSHIBARを営む、西さんに食事に誘ってもらった。そこで、印象に残った言葉がある。 「笑顔じゃないと、人を笑顔にできないし、幸せじゃないと、人を幸せにはできない」 心の底から、そう思う。 人が好き 最後に、僕は「人」がすきだ。 なにかを考えるときにまず、人を思い浮かべる。例えば、被災地に行く時も人の顔を思い浮かべながら、行っていた。カンボジアもそうだ、出会った人にまた会いたいと思い、会いに行く。 被災地も、カンボジアも僕は「人」ために動きたいと思うし、一生そうでありたいと思う。





今、生きていること、生かされていること、すべてのことに感謝します。 古川和幸君、古谷恵一君を偲んで。


文:山勢拓弥
ページ先頭に戻る