今回、私が「共に歩こうファミリー」の一員としてカンボジアに行ったことに、とても不思議なご縁を感じている。というのも、私は大学で薬学を専攻しており、進路に迷う中でロシナンテスの川原先生との出会いがあった。その相談を高校時代からの友人である福一に相談したところ、「共に歩こう」と繋がったのだ。こんなに近いところに、こんなに太い繋がりがあったと気づいた時の感覚はとても不思議だったが、今では妙に納得している。

 私はこれまで、男子の中に1人混じってサッカーをしたり、1人で海外に行ったりと、俗にいう ‘少し変わった子’の分類に入る。インドでカルチャーショックも受けず、逆に生命の力強さを感じ、涙を流すような人間だ。でも、国際協力や人の役にたつということにはピンとこない。なぜなら、私の行動は全て最終的に私のためだと思っているからである。人のためと思ってやったことでも、最終的には彼らの笑顔やありがとうの言葉に、心が満たされて喜んでいる自分がいる。毎回毎回、彼らは私の心を震わせ、素敵な学びを与えてくれる。今回のカンボジアも彼らから生命について、生きることについて学べたらという想いから参加させていただいた。

 今回思ったことは、彼らにとっての幸せは何か、ということである。彼らが求めるものは何か。それは物質的なものなのか。そして、私たちが与えてもいいのだろうか。私たちの生きる日本社会は物に溢れているが、どこか心の満たされないところがある。逆に、カンボジア等の途上国といわれる国では、物は不足しているが、生命エネルギーで溢れている。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」、や、「及ばざるは過ぎたるに勝れり」ではないが、彼らのエネルギーを彼らの望む方向へ引き出すには私たちはどのように行動すれば良いのだろうか。そんなことを考えていた。カンボジアで出会った子供たちは、凛々しく美しかった。最初は不安げな表情を見せていても最後にはとびっきりの笑顔を見せてくれる。そんな子供たちの笑顔が曇ることのないよう、支えていけたらなと思った。そして、息子や兄の想いを乗せて行動し続ける古川ファミリー本当に凄いと思った。

  ママ、千代さん、福一、ファミリーの仲間。そして、家族や教授、友達。みんなに見守られ支えられて私は本当に幸せです。夏には和幸さんの想いと一緒にスーダンに行ってきます。まだまだ汲み取ることのできていない皆さんの想いを精いっぱい感じて行ってきます。感謝の気持ちでいっぱいです。これからもよろしくお願いします!オークン\(^o^)/


 
文: 長友恵美
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 僕は世界を変えることができると思いこんでいた


 カンボジアへ行くことをどのくらいの時間待ちわびただろう。どれだけの想いを募らせただろう。今まで生きてきた中で、一番長く、深く考えた6ヶ月だったかもしれない。12月に初めてママや千代さんと出会い「カンボジア行き」を勧められ、想いを募らせた6ヶ月間。僕のこれまでの人生の中で、とても有意義な時間だった。

 出発当日。東京から福岡(小倉)への13時間のバスに揺られながら10:00着。自宅に着いたのは11:00を過ぎたころだった。12:00には家を出て、福岡空港へ。14:00着。 かなりハードな移動で忘れ物は大丈夫か?というより最初からこんなにハイペースで大丈夫か?と少々不安感に包まれながら12時間のフライト。カンボジアの空気に触れ、安心感に包まれた。 今回の”共に歩こう-人の役に立ちたい-”で村に行ったときの経験が僕の考え方、生き方を大きく揺り動かした。

 カンボジアの村を想像してください。お金もない、水もない、電気もない、食べるものすらろくにない。僕はそんな村を想像していました。おそらく大半の人がそう考えるだろう。 想像と実物はほぼ同じでした。 ただひとつだけ違ったこと、「村の人たちの笑顔」、これは想像だにしていなかった。 ある意味、愕然、そして脱帽。 彼らにとって、あれ(電気、水、お金、食べるものがないこと)は日常であり、それが”普通”なのである。 人間は自分の価値基準でしか物事をとらえようとしない、意識してもとらえることができない。僕たちの日常と彼らの日常を比較はしても、哀れんだり、冷たい目を向けたりしてはいけない。なぜなら、彼らは日常を生きているのだから。

 ホームレス(homeless)とハウスレス(houseless)という言葉を聞いたことがあるだろうか。Houselessとは文字通り、家がないことを指す。一方homelessとは家族団欒の温かい帰る場所がないこと指す。Homeは温かい家庭を示す意味を持つ。村に行って気がついたことなのだが、カンボジア人は住む家はないけれど温かい帰る場所がある。つまり、houselessだがhomelessではないのだ。途上国に多く、先進国に少ない現象なのかな。と思った。 村に行って、みんなの笑顔をみているうちに「ここの場所はこれでいいんだ。今はなにも変える必要なんてないんだ。」と思った。 と同時に今まで想像してきた、自分のvisionが崩れ去った。 村に行き、人に出会い、この人たちにできることを探そう。そう思っていたのだ。 できることを探そう。その思いは最初から上目線で、傲慢だった。
村から帰るトゥクトゥクに乗り、サングラス越しに涙がこぼれた。 「何がなんだか、わかんねーよ。わかんねーよ!わかんねーよ!!!!」 「この笑顔がある限り、変えるのもなんてないんだよ!!!」 「ねぇ。和幸君、俺どーしたらいい?」自問自答のような、すがりつくような気持ちで何度も何度も心の中でつぶやいた。 さすがに答えてくれなかった。でも、それが答えなのかな?と今では思う。 文化が違えば、生活も違う、考え方も違う、価値観も違う。「何がなんだか、わかんねー」のが当たり前なのだ。 「この笑顔がある限り、変える必要なんてないんだ。」というのが答えだったんだ。

 日本は経済大国と呼ばれている。その日本でも問題はたくさんある。自殺。鬱。リストラ。Homeless。それは自分が日本人だからこそわかる問題だ。 「よし、カンボジア人になろう。」 もっと、カンボジアのことを知ろう。同じ時間に起きて、同じ物を食って、腹をこわして。同じ言葉で会話して、同じ目線で考えて、同じ時間に寝て、また起きる。その生活を共にする中で、少しずつ意見をだし、日本はこうやって成長してきたんだよ。と教えてやる。それからでも遅くないんだ。その中になにか答えがあるんじゃないか。そう思った。

  ある日、「俺、どうしたらいいのか、わかんなくなりました。」と言うと西さんにこう言われた。 「じゃあもし、あなたがレスメイだったら?村の子供たちだったら?」 あの言葉は一生忘れないと思う。心の中でピカッと光った瞬間がわかった。 そうだ!!日本で育ち、日本で教育を受け、日本で愛を注がれ、日本で考えたからこそ「ここ」にいれるんだ。 日本にいたから、外国に行き「なにか」をしよう。と思えたんだ!! 日本で自分が生まれたことにはなにか意味がある。 その「なにか」はまだ皆目検討もつかないが、人生の終わりの方でわかればいいんだ。そんな人生を歩もう。 悩みが吹っ飛び、残りのカンボジア生活楽しむぞー!!という気持ちになった。 運動会をし、子供たちとふれあい、ペットボトル10本集めて4円にするという仕事をしている4歳の子に出会い、頑張れ!!頑張って生きろ!!って涙し、共に歩こうの仲間と笑い、ムーンやビチェ、ロッ、カンたちと笑い、施設の子供たち、モイやソティたちとも精一杯楽しんだ。 本田さんに厳しい現実をぶつけられ、西さん、千織さん、Bornさんに励まされ、佐藤さんに「ニコッ」と笑いながら、カンボジアの生活を話してもらい、ママには「あんたは私の息子よ。和幸に”スーダンはまだ”と足止めして後悔した思いを二度としたくない、させたくないの。やりたいことを精一杯やりなさい。」と涙を流して言ってくれた。 今回会った全ての人たちには感謝の言葉でいっぱいだ。 本当にありがとう。

 今回カンボジアに来て、ひとつ決めたことがある。 大学を4年間全うすること。 アジアンイングリッシュの壁にスキルのなさを感じ、4年間でペラペラになってやる!と決意し、佐藤さんたちの3年間我慢し、お金を貯めた話を聞き、お金を貯めようと決意した。「大学を出たから偉いと思っている、学歴社会が嫌だから、大学を出たくない」という自分のプライドを自分自信でぶちこわした。 普通の人が、”日本”で一生をかけて終わらせることを、俺は4年間で全て終わらせてやる。 最後に 本、先生、テレビ、学校、全てを模範にすることはいいことなのかもしれない、でも間違っていることだらけのこの世界で、”強く”信じていいのは「この思い」だけ。 あとは”山勢拓弥”を全うし、和幸君、恵一くん2人の思いを形にしていくだけ。 決めるのは自分だ。山勢拓弥だ。 共に歩こうのみんなありがとう。


 
文: 山勢拓弥
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 私がカンボジアに興味をもったきっかけ、、、

それは、高校の同級生の千代から届いたメールでした。高校卒業以来会っておらず、久しぶりにきたメールにはお兄さんが亡くなったこと、亡きお兄さんの意思を受け継いでカンボジアでボランティアをしていること、古着や文具など使ってないものがあれば寄付してほしいということが書いてありました。 私は当時大学生だったため、周りの人にも呼びかけ、物資を集めて千代に届ける、ということ何度かしていました。その度に共に歩こうファミリーからカンボジアの子ども達が寄付した服を着ている写真が送られ、とても心が温まりほっこりした気持ちになっていました。またそれと同時に、現地のことを何も知らずにこのまま間接的に支援し続けるよりも、1度現地に行って直接色んなことを感じたり知りたい!と思い、今回参加させていただくことになりました。

 実際に行くまでの私の中でのカンボジアは、地雷がまだあちこちに埋まり危険で、人々が貧困で苦しんでいるというイメージでした。私と同じようなイメージをもつ人は他にもいると思います。しかしそのイメージは、空港からゲストハウスに行く数分で早くも覆されました。なぜなら、街にはとても立派でおしゃれなホテルが並び、ベンツやレクサスといった高級車が走り、その光景と地雷・貧困という単語が結びつかなかったからです。 安全で思っていたよりも不自由なく暮らせる国。 そんな印象をもち、翌日、小学校・村へ行くと、そこにはカンボジアに行く前までのイメージに近いものがありました。カンボジアは貧富の差が激しく、街のほうでは立派なホテルが建ち並び、村のほうにでは家が木でできていて、大人数が入ると今にも床が抜けそうだったり、ライフラインが行き届いてなかったり、靴や服を身につけていない子どもがたくさんいました。 また、地雷の現状について学ぶ機会があったのですが、現在カンボジアでは地雷撤去活動が行われており被害者の数も減ってきてはいるものの、1日に1人は亡くなる方がいて、やはり危険な地域はまだまだ残っていると知りました。

 貧困・・・それは、貧しくて生活に困っていること。大切なものが欠けていること。 カンボジアは前者ではあるが後者ではなく、逆に日本は前者ではないが後者である、と思いました。カンボジアは決して裕福とは言えませんが、村の人々はとても笑顔が素敵で幸せいっぱいで、この幸せいっぱいの笑顔が1番イメージと違っており、貧しいから不幸と決めつけてはいけないと思いました。

 今回参加させていただき、カンボジアのことを知ることができ、さらに興味が湧いたことはもちろん、日本を見つめ直すきっかけにもなり、とてもいい経験ができました。また、私がカンボジアに行ったことで、周りの人がカンボジアについていろいろ調べてくれたり、物資を寄付してくれたり、カンボジアに少しでも興味をもってくれる人が増えたので、行って良かったと本当に思いました。 共に歩こうのみなさま、カンボジアでお世話になった日本・カンボジアの方々、支援してくださった方、本当にありがとうございました。  

文: 杉原麻衣
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 カンボジアへ行って 今回のカンボジア行きで1番に思ったのが「人生は一期一会である」ということだ。

 向こうの国では人と目が合うと必ずといっていいほど、微笑み、手を振り合う。村や小学校、施設、街やホテルで出会った人たちとは初対面にも関わらず、笑顔で抱き合ったり、世間話をしたりした。日本では考えられないことである。18年間生きてきて構築されていた発展途上国や東南アジアへの先入観は、たった1週間の現地滞在で見事に吹き飛び、あとには素晴らしい経験を得ることが出来た幸福感と周囲への感謝の気持ち、新たな世界観が湧き上がった。

 私は元々ボランティアに対してしてそれほど積極的だったわけでも、行動を起こしていたわけでもなく、ましてやカンボジアに行こうとは思ってもみなかった。周りには活動自体を生涯の仕事にしようとしている者や、既に何度か海外へ行き、そういった活動をしている者が多かった。人の喜んだ顔や笑顔をみること、ありがとうと言われることが好きな自分であるが、正直「自分の見聞を広げよう、夢への自己投資になるだろう」くらいの、彼らに比べると軽い気持ちで今回のカンボジア行きを決めた。

 出発までの期間、「この程度の心づもりで大丈夫なのか」「皆もっと真剣に色々な思いを抱えて行くのではないか」「私が行って出来ることがあるのだろうか」と焦りや葛藤、自問自答を繰り返す日々が続いた。  しかし、実際現地に行き、人と触れ合い、色々なことを体験し活動していくなかで、このような湿っぽい気持ちはカラカラに乾き、人と人とのつながりは、とてもシンプルな、笑顔と思いやりの精神から成り立っているのだと感じた。

 現地で初めて小学校へ行ったとき、緊張気味の私をアイスブレーキングさせてくれたのは、みんなの笑顔だった。
 小学校での運動会では、かんかん照りのなか二人三脚や綱引きをしたが、暑さを感じないほど夢中になり、楽しむことが出来た。   膝立ちになった私が立ち上がった時に、私の膝小僧に付いた砂を一生懸命払ってくれた小学校の女の子たち。
 思わず口からこぼれ出た「ありがとう」の言葉に笑顔で応えてくれた。
 言葉が通じなくても心と心で繋がり合えることを実感した。

 みんなでバレーして、転がったボールを拾いにいったとき、牛のうんこ踏んでベトベトになった私の足とクロックスを、嫌な顔ひとつせずに大切な水で洗い流してくれたスロス。
 食事中も日本語の勉強に熱心だったホー。  
 目が合うと常に満面の笑みを返してくれたレスメイ。
 お茶目なツムとマウ。  笑顔を惜しみなく振りまいてくれた村の人たち。
  一緒に大縄跳びをしたり、肩車したり、抱き付いてくれたり、大声で笑いあったりした現地の子どもたち。

   どの場面も心のシャッター押しまくりました。  本当に幸せな気持ちになれたよ。ありがとう。  どこにいても、何をしてても、笑顔と感謝の言葉には人を幸せにし、勇気づける力があるのだと思った。


 思い出せば出すほど、カンボジアが恋しくなって日本での清潔で画一化された生活が物足りなく思えてくる。よく先進国から、俗に発展途上国といわれる国へ行くと自国の豊かさ、恵まれ具合を再認識するというが、私の場合は逆だった。現地の人々の、人を思いやる気持ち、人懐っこさ、優しさ、心の豊かさに触れ、生きる上で本当に大切なものは何なのか、をあらためて考えさせられ、自分をしっかり持つことの素晴らしさ、心地好さを教えてもらった。 帰国してからは、今まで悩んだり腹立たしかったりしたことがちっぽけに思えてくるようになった。  色々思ったり、考えたりすることはあるが、どう生きるか、どんな未来を手に入れるか、どうやって理想の自分に近づくのか、結局は自分次第なのだ、と。

 私には小4のころから温め続けてきた夢がある。 今回のカンボジア行きは、そんな私を成長させ、夢を実現させる糧となった。 また自分とじっくり向き合い、これからの生き方について考える機会も与えてくれた。 自分から1歩を踏み出さないとなにも始まらないということも教えてくれた。 かけがいのない経験と出会いをありがとう。  私はこれからも人の笑顔を大切にし、色々なことに挑戦して、社会、いや世界に貢献出来る人間になりたいと思う。  

 西さん、Bornさん、本田さん、佐藤さんご夫婦、千織さん、ムーン、ビチェ、トゥクトゥクの運転手さん、ガイドの方々、施設の先生、ママ、和幸さん、千代さん、福一さん、共に歩こうファミリーのみんな、カンボジアで出会った沢山の人たち、そして私を笑顔で送り出してくれた家族、今まで私に関わってきた全ての人たち、またこの活動を陰から支えてくれた方たちに感謝の気持ちでいっぱいです。  私は貴方がたと出会い、共に笑い、歩めたことを誇りに思います。  本当にありがとう。 チュイーン!!


 
文: 古庄花江
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 今回、このカンボジアでの活動に参加させてもらう事になったきっかけは、千代です。 ちよとは大学で最初に出会ったクラスメイト。それ以来ずーっと一緒。そんなちよのお兄ちゃんが、大学3年の時に亡くなり、 ちよはそのお兄ちゃんの思いを継いでカンボジアで活動するという。カンボジアから帰ってくる度に、たくさんの写真を見せてくれて私たちにいろんな話をしてくれた。 私よりも小さな身体で、感動屋さんで泣き虫なちよが、すごくすごく頼もしく輝いて見えた。自然と自分もカンボジアへ行ってみたいと思うようになった。

 一番最初に、準備の段階でカンボジアへ一緒に行くみんなと集まった時、みんなのカンボジアへの熱い想いに圧倒された。自分はカンボジアへ行って、できることがあるのだろうか。 意味はあるのか。カンボジアの歴史もクメール語も全然分からない。自分は人見知りだし、表現することが苦手で英語も喋れない。でもせっかくの機会。何ができるか分からないけど、 カンボジアへ行って、自分の目で見て、感じて、たくさんの事を吸収できたらなと思い、今回参加させていただく事にした。

  カンボジアでは、トゥクトゥクという乗り物にたくさんの支援物資が入った段ボールを積んで移動する。それを村や学校へ運んで一人ひとりに配る。カンボジアへ来れない人の思いの分まで、 この段ボールにたくさん詰まってるんだって思うと、重く重く感じた。 『オークン』ありがとう。カンボジアの子供たちに文房具や衣服を手渡すと、手を合わせてそう言ってくれる。 キャッキャ言って喜んでくれる。そんな姿が可愛くて、嬉しくて。 物をあげるという行為は、あげたいという人ともらいたい人がいて、初めて成り立つ。日本には、物資を届けたいという人達がいて、カンボジアにはそれを待っている人達がいて。 それを手渡すことが自分の役目でありここに来た意味なのかなって、喜ぶ子供たちの笑顔を見て感じた。


 トゥクトゥクで、本当になんにもない草原と赤土の道をずーっと走ってくと、ぽつんと家があって、そこに村があって。子供たちは裸だったり、汚れた衣服だったり。 足は怪我だらけだった。それでも子供たちの大きな瞳はキラキラしてて、笑顔は輝いてて、すっごく可愛いかった。普段日本でこんなにたくさんの子供を見ることはない。 この村の子供たちには、テレビゲームもパソコンもないから、みんなで一緒に外で遊んでるし、支援物資を入れてた段ボールでさえも遊び道具にしてしまうくらい、子供はやっぱり遊びの達人だ。 村は、電気もガスも水もない生活。日本で生まれ育った自分にとっては、不便と感じてしまうけれど、ここではテレビがないから、きっとその分家族での団欒の時間がたくさんあったり、 蛇口をひねれば簡単に美味しい水がでる訳じゃないから、水の大切さを感じることができたり。コンクリートで固めた立派な家じゃないけど、家の中が他人から丸見えな簡素な造りだけど、 その分隣人を身近に感じることができるし、きっと村全体が家族のような存在なのかなと思う。ここには便利さより大切なものがある。
 アンコールワット やトンレサップ湖に行った時、観光客を見つけては物を売ろうとする子供達や、悲しそうな瞳でお金を欲しがる小さな女の子がいた。そうする様に教えられてきたのかなって思うと、 胸が苦しかった。自分にはどうすることもできない。たとえ、そこでお金をあげたとしても、きっとその子はまた次の観光客を見つけて同じ事をするだろうし、明日も明後日も止めないんだろうって思うと、 どうする事が正しくて、何が間違ってるのか、分からなくなった。

 カンボジアですごした一週間は、日本の生活とは掛け離れた、どこか現実離れした日々。日本に帰ってきて一気に現実に引き戻され、仕事に追われる忙しい毎日だけど。 でも確かに、カンボジアの子供たちも同じ地球で、この同じ空の下で、今同じ時を過ごしてる。空を見上げると、自分は何をすべきか考えさせられる。カンボジアで感じたたくさんの事。 まだ整理できてない自分の気持ちもある。ほんの一部分だけど、カンボジアの素敵な部分と辛い現実両方を見れたと思う。
 自分はカンボジアで何ができるんだろうとずっと悩んでいたけど、 子供の笑顔や人々の温かさにふれ、逆に自分が元気づけられ、何事にも感謝する心を教わった。一期一会かもしれない。でも出会えたことにきっと意味がある。そうやって人と人の和がつながってゆく。 ここに来れて本当によかった。

  最後に、自分がこのカンボジアに来れたのは、共に歩こうファミリーがいるから、日本で支援してくださる方々がいるから、支援物資を提供してくださる方々がいるから、 カンボジアで共に同じ思いを抱き活動されてる日本の方々がいるから、そんなたくさんの方々の暖かい思いがあるから。ちよ、ママをはじめ共に歩こうファミリーのみんな、 カンボジアで出会った方々、忙しい中長期休みをくれた会社の方々、いつも心配かけながら見守ってくれる家族に、感謝。すべての出会いに感謝。『我逢人』人と出会うことからすべてが始まる。 出会ってくれてありがとう。カンボジアの子供たちの笑顔に会いに、また帰って来ます。また会える日まで。オークン(^人^)

ちゃっぴー  



 
文:末永菜津美
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『自分は他のみんなとは少し違うのかもしれない。』

今回カンボジアに行ってみてふと思った。
思えば去年の9月から今日まではたくさんの人との出逢いがあり、たくさん考え、たくさん悩み、様々な心境の変化があって、これまでのぼくの人生を語るうえで欠かすことのできない日々であると同時に、 これからのぼくの人生を生きていくうえでとても重要なことを学べた日々でもあった。

 ぼくと共に歩こうとの出逢いはまず9月、和幸くんや古谷くん、尾上くん達も昔通っていたという東進に勤めている薫さんの話がきっかけだった。話の内容は和幸くんの夢、 そしてまたその和幸くんの夢を繋ごうとしていた古谷くんのこと。それまでボランティアや海外での活動などに大きな興味を持っていなかったぼくでも、心にくる何かをしっかりと感じ取ることができた。 そして12月、学校に川原さんが講演に来られたことがきっかけでママやちよさん達と出逢った。その時にママから「軽い気持ちでいいからカンボジアに行ってみませんか?」と誘われたことでぼくと共に歩こうとの関係が深まり、カンボジアに興味を持ったのだった。

  そういう訳でぼくはカンボジアに行くことになったのだが、そこにはたくさんの方の理解と協力が必要だった。ぼくにカンボジアに行くきっかけを与えてくれたママ達はもちろん、 今年から浪人生だというのに「せっかくの機会だからいってらっしゃい。」と背中をおしてくれた薫さん。 そしてカンボジアに行くならと寄付する体温計を用意してくれた父さん。初めての海外だったから最後まで準備を手伝ってくれた母さん。改めて今回ぼくをサポートしてくれた人達に感謝したい。


 そして実際にカンボジアに行ってみて感じたこと。シェムリアップでは人それぞれが自立していて時間に縛られずのびのびと生活している印象を受けた。 しかし一歩村に入ってみれば1つの村が1つの家族みたいで街と村では全然似つかない雰囲気を感じた。

 小学校に行ってみると、日本人慣れをしているのか徐々に心をひらいてくれたのかわからないけど、 意外にもすぐに仲良くしてくれて笑顔で手を握ってくれたりと、こっちの方が心を洗われる気がした。またぼく自身小さい子供が好きだったからある程度は仲良くなれるだろうと思っていたけど、 言葉が通じずに想いをやりとりできるかは心配だった。だがそんな心配もジェスチャーと雰囲気でなんとかでき、なにより表情、特に笑顔は全世界で使える立派な公用語であると身をもって感じた。
 運動会でもぼくが前に立ってラジオ体操をした時に、みんな楽しそうにニコニコしながら見よう見まねで参加してくれた。向こうの子供達は本当に無邪気で、自分の好奇心や興味を素直に表現したり行動したりする点に、 少しだけ日本人の子供とのギャップを感じた。子供だけではなく大人の人達もとても暖かくて、やはりみんな笑顔が印象的だった。ちょっかいを出してくる人、カスタネットをあげたら喜んでずっと叩きながら歩いている人、 カンボジアの歌を歌ってくれる人、地面に寝っころがってまで写真を撮ってくれる人、初日から最後までずっと名前をまちがって呼んでも指摘せずに笑顔で返事をする人、 ごはんの時に食べ終わった肉の骨をお皿に置けば良いのにおもいっきり外に投げる人など、とてもピュアでユニークで優しい人達ばかりだった。


  また今回いっしょに行った人達やカンボジアで出逢った日本人の方達もぼくには魅力的に感じた。今まで学校というコミュニティーの中では、どこかこちらの顔色をうかがいながらの返答や、 こっちの意見にただ便乗してなんとか話を合わせようとしている友達もいた気がする。ボランティアや海外での活動についての話はなおさらだった。 しかし、今回いっしょに行った人達やカンボジアで出逢った日本人の方はしっかりと自分の意見を持っている人ばかりで、時には熱く話してくれたりもした。 あたりまえで小さなことかもしれないが、ぼくにはそれがとても嬉しく感じた。たとえカンボジアに来た理由や目的が違っても、さすが「カンボジアに行きたい!!」 と思った気持ちが共通している人達の集まりなだけはあるなと思うほど、ぼくには新鮮で魅力的だった。 それと同時にそんなみんなと一緒に活動することに罪悪感を覚えた。さっきも言ったように、ぼくはもともとボランティアや海外での活動などに興味があったわけではなく、 「誘われて行ってみたいと思った」というなんともアバウトな理由で参加させてもらったから、人生をかけてカンボジアで暮らしている方や、 将来カンボジアやカンボジア以外の海外で活動することを考えて参加した人達に申し訳なくて、みんなとぼくとのカンボジアでの活動の原動力の違いに葛藤していた。 自分だけカンボジアやボランティアに対する意識が薄い気がして戸惑った。この時『自分は他のみんなとは少し違うのかもしれない。』という想いがこみ上げてきて、ぼくにはそれが嫌に思えた。 そのあとこの葛藤と戸惑いをやわらげてくれたのはいっしょに行ったみんなで、結局ぼくはみんなに対して罪悪感を感じていたのに、みんなに助けてもらって、終始みんなに頼りっきりだった。


そしてぼくが今回一番感じたこと。それはぼくは『人』がだいすきだということ。カンボジアに行ってまで感じることかと思うだろうが、カンボジアへ一歩踏み出してみてこそ感じることができたと思っている。 日本に帰ってきて周りの人からカンボジアのことを聞かれて、まず思い出すことは環境、設備、出来事ではなく、むこうで出逢った人達の顔だった。 家族に話すときも「○○がね・・・」、「○○とね・・・」、「○○はね・・・」と人のことばかり口からでていた。この今書いている活動の様子も人の話ばかり(笑)。 そして去年から薄々感じていた他の人との活動の原動力の違いはカンボジアで最大限に膨らんで、今ではすこし吹っ切れた感じがする。なぜならぼくは、ぼくなりのボランティアの形を見つけたからだ。 ぼくはカンボジアに支援をしに行くのではない。ぼくのだいすきなママ、ちよさん、福一くんがしている活動にお手伝いをするために行く。ママやちよさんが大好きな和幸くん、 古谷くんのお手伝いをするために。なにかの縁で繋がることができた共に歩こうファミリーのみんなに逢うために。親友の山勢がむちゃなことをするのをとめるために。父さん、母さん、薫さんの想いを届けるために。 カンボジアにいる人達の元気な姿を見るために。いろんな人の笑顔を見るために。いろんな人に笑顔を届けるために。 これが今回のカンボジアで見つけたぼくなりのボランティアだ。
今回出逢ったすべての人にオークン!!!!  

 
文:上杉健太
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