第5回 人の役に立ちたいinカンボジア 重松恵梨子
「ジョンブリアップスオ」「オークン」カンボジアの人は丁寧な挨拶をする時必ず手を合わせる。日本でこの仕草をするのは「いただきます」「ごちそうさま」の時くらいだ。
そして、両国に共通して、この仕草は仏前・神前に立った時のものでもある。
カンボジアでどうしても行きたかった場所のひとつに「トゥールスレン博物館」があった。古谷くんが持っていた博物館の資料を見せてくれたことがある。
そこに写った女の人の写真、クメール・ルージュに捉えられ、まもなく殺されてしまう運命にあるその人の表情が忘れられなかった。詳しい史実を知らなくても、
とても悲しい出来事がこの場所で起こったことはすぐに分かった。
カンボジアに着いて3日目、この場所を訪れた。資料にあったような、犠牲者の人の写真がびっしりと並んでいる。入ってすぐから心が落ち着かず、 赤ちゃんとその母親が入れられていた牢獄に足を踏み入れると、我慢の限界がきて涙が止まらなくなった。ここで命が奪われた人がたくさんいる。
そしてその分、大切な人を失った悲しみを背負う人がいる。その事実だけで胸が苦しくてたまらなかった。
最後の部屋に、鎮魂のための大きな鐘が置いてあり、線香が煙を上げていた。現地で友達になった日本人の女の子が、隣でおもむろに手を合わせ、お経を口ずさみはじめた。 私も手を合わせ、その声に耳をかたむけていると、ドキドキしていた鼓動が少しずつおさまり、高ぶっていた気持ちが落ち着いてきた。この時初めて、手を合わせることの意味、お経を唱えることの意味を体で感じた。
古谷くんが、古川くんの事を初めて話してくれた時のことをよく覚えている。古谷くんは『ノルウェイの森』という映画を観た後で、その話の途中、ふいに「自分にも亡くなった友達がいる」と言った。 私が戸惑うと思ったのか、いつものおどけた調子だったが、彼の真剣さはその表情やそぶりから痛いほど伝わってきた。
古谷くんから初めてカンボジアの話を聞いたのがいつだったか、はっきりと思い出せない。「キリング・フィールド」という映画を勧めてくれた時、 カンボジアで名産だという黒コショウをどっさりと持ってきてくれた時、古川くんのお母さんとカンボジアへ行った時の写真を見せてくれた時、いつが最初だったんだろう。 「カンボジアでは、『はい』と返事をする時、男は『バー』女は『チャー』と言うんよ。俺がふざけて『チャーチャー』と返事をすると、 子供たちが嬉しそうに『オッテーオッテー(違う違う)』って笑うんよ。」気がついたら古谷くんはいつも、楽しそうにカンボジアの話をしていた。
大晦日の日、2人でお茶を飲んでいるとき、なんとなく将来の話になった。私はその時初めてロシナンテスの川原先生のことを知り、 「共に歩こう」と古川くんの存在は、彼が将来を考える上でとても大切にしているものなのだと知った。 「カンボジアの子供たちに映画を観せたい。」話の中で、彼はこんなことを言った。その時は、古谷くんが突然口にした思いもよらないアイデアにただびっくりするばかりだったが、 今思い返してみると、映画の仕事をしている私と一緒にできることを、夢として話してくれていたことに改めて気付く。
古谷くんとのことを思い返していると、こんな風に、今になって気がつくことがたくさんある。その時はなにげなく聞いていたことも、 今思い返してみると、きっとこんな意図があったんだろうとか、こんな想いで言ったんじゃないかとか、なぜその時に気がついて、きちんと返事ができなかったんだろう、と後悔ばかりしている。
カンボジアで、志半ばに亡くなった一ノ瀬泰造さんの写真集を見せてくれたときもそうだった。一ノ瀬さんが撮った、アンコール・ワットへ続く一本の道が画面いっぱいに写された写真を見せてくれた時も、 きっと私は簡単な返答しかできていなかった。古谷くんが強く思い入れていたに違いない一ノ瀬さんの写真集も、パラパラとしか見ていなかった。
ちょっと油断したら全ての気力が抜け、何もできなくなってしまうことはわかっていたので、すぐにカンボジアへ行く決心をまわりの人に話した。 古谷くんのご家族、私の同僚、友達、両親、そしてかずママこと、古川くんのお母さん。 以前、古谷くんとカンボジアに行ったことのあったかずママには、その時行った場所を教えてもらうつもりで話を切り出したが、 かえってきた返事は「私も一緒に行くよ!」だった。かずママは即答でこう答えてくれた。かずママが来てくれるということは、古川くんも一緒に来てくれる。 ぜったいぜったいこの旅は大丈夫だ。かずママの心強い返事を聞いて、行くと決めた後もなかなか消えなかった不安が、一気に吹き飛んだ。
日ごろから仕事でお世話になっていたNPO「カンボジアフロム佐賀」のメンバーの方に具体的な旅の相談をした。 「カンボジアフロム佐賀」は、プノンペンから北へ車で2時間ほど行ったところにあるリング村に「日本友好学園」という中高一貫校を設立し、10年以上にわたって支援を続けている。 海外なんてろくに行ったことがない私が、ほんとにカンボジアになんて行くことができるのか?漠然と話を持ち掛けたが、たまたまメンバーの方たちの定期的な学校訪問の時期と重なり、同行させてもらえることになった。 いつか上映会をやりたいと思っていると話すと、「今回、やってみようよ!」と背中を押してくれ、すぐに学校での上映が決まった。 かずママも喜んでくれて、「共に歩こう」の活動として、シェムリアップの本田さんの施設でも上映できることになった。 こういう時の磁力は言葉で説明できない。最初からそうなると決まっていた、としか言いようがないように、どんどんエネルギーがそっちの方へ集まっていく。
カンボジアでの滞在期間は一週間。前半は「日本友好学園」を訪問し、後半はシェムリアップでかずママと合流し、「共に歩こう」の活動のお手伝いをさせてもらう、というスケジュールだ。
スクリーン、パソコン、プロジェクター、スピーカー、上映のための機材一式をカンボジアに持ち込んだ。電力も、プラグの形式も違うカンボジアでの上映は大きな賭けだった。 電気が通ったばかりのリング村では停電もしょっちゅうで、苦労して重い荷物を運んでも、全てが台無しになることも十分に考えられる。 日本の中高生だったら、楽しめるものは大体察しがつくが、相手は言葉も違えば、面白いと思う感性も違う、まったく異なる文化圏の中高生だ。上映ができたところで、彼らに本当に楽しんでもらえるのかもわからない。
上映前ギリギリまで様々な心配事が絶えなかったが、不思議と落ち着いた気持ちもあった。古谷くんがやりたいと言っていた上映会が失敗する訳がない。 他の人に話しても理解するのは難しいかもしれないが、こんな根拠のもと、私は強い自信を持っていられた。
友好学園での上映会は大成功に終わった。学校の生徒たち、先生やその家族、どこからか集まってきた村の子供たちは声をあげて笑いながら、楽しそうに観てくれた。上映後には、共感できる感想をたくさん聞くことができた。 文化圏の違いなんて全然関係ない。私が面白いと思うものは、彼らも面白いと思うのだ。映画を通して、彼らとの距離が一気に縮まった気がした。 会場を出て行く子供たちに笑いかけると、「オークン」と手を合わせて答えてくれた。
翌々日から、シェムリアップでかずママやCheersのにしさんたちと合流し、村で「共に歩こう」で集めた支援物資を配る手伝いをした。プノンペンでは主に車での移動だったが、この日から、びっくりするくらいのデコボコ道をトゥクトゥクで進む。 高層ビルが立ち並び、ビュンビュン車が行き交っていた町並みが、ちょっと横道に入っただけで、タイムスリップしたみたいに、木材と葉っぱでできた家の並ぶ村の風景に変わる。 「おーーーい!!来たよーーー!!」とかずママの威勢のいい声を聞きつけて、どこからか村の人たちが集まってきた。みんな駆け足で寄ってくるが、私たちの側までくるとピタッと足をとめ、 じっとこちらの様子を伺っている。サイズの合いそうな服を選び、子供に「はい」と手渡しても、身動きひとつしない。戸惑う私に、かずママが「着せてあげないとだめよ」と教えてくれた。 頭から首へ通して、袖を通してあげて、肩をポンと叩いて声をかけると、されるがままだったその子の顔が笑顔になり、「オークン」とその手が合わさった。 かずママはとても手際よく、子供たちに優しく声をかけながら、どんどん古着やお菓子を配っていく。かずママとカンボジアの人たちの間に言葉の壁なんてない。 かずママの日本語に限って、カンボジアの人は理解するらしい。かずママの周りの人たちがどんどん笑顔になっていく。時々、「和幸―!古谷―!」とかずママが2人を呼ぶ声が聞こえる。この場に2人がいることを感じた。
覚悟はしていたが、この旅は決して楽しいばかりではなかった。「一緒に来たかったのに」、「自分はここで何をしてるんだろう」、ダメだとわかっていても、考え込んでしまう時が度々あった。 一人で行っていたらきっとくじけてしまっていた。でもそんな時、隣にいてくれたかずママや、真剣に話を聞いてくれたにしさんがいてくれたから、頑張れた。 それは、日本に帰ってきても一緒だと思う。まだまだ前向きにはなれないし、つらい時間もいっぱいあるけれど、そんな気持ちの時、側に誰かがいてくれることで、私は毎日頑張れる。
シェムリアップに着いた翌日、本田さんの施設を訪れた。シェムリアップは特に古谷くんと縁のある場所だったこともあり、到着したその夜、色々考え込んでしまって全然眠れなかった。 施設に着くまで、なかなか調子が出ず、気分も沈んでいたが、子供たちと会った途端にみるみる元気が湧いてきた。
子供の頃、新しい友達ができる瞬間に感じたワクワクする気持ちを思い出した。体裁や立場、そんなもののまったく関係ないところで誰かと出会って友達になる。 そういえば、こんな当たり前のことが、今の私の日常にはほとんどなくなっている。人と人が出会って仲良しになれば、無条件に人は元気になる。 日本では見えにくくなっている様々なことが、カンボジアでははっきりと見える。
施設の屋上にゴザをひいて、ピザやチキンをみんなで一緒にモリモリ食べた。子供たちは、ご飯を食べているときも、常に気を配ってくれる。施設で毎週教わっているという日本語で一生懸命話し掛けてくれる。 かずママはここでもムードメーカーだった。みんなに元気いっぱいに話し掛ける。もう何回も施設に来て、すっかりこの場に馴染んでいるかずママとみんなの輪は、 古川くんのおばあちゃんの家での「共に歩こう」の集まりみたいだった。かずママの行くところには、必ずみんなの輪ができる。
食事のあと、アニメーションを上映した。私は、暗闇があるとすぐ映像を流したくなってウズウズしてしまう。電気が少ないカンボジアの夜の闇の中では、スクリーンに光が当たるだけで、 これから映画がはじまるワクワク感で心がいっぱいになった。こんな気持ちになるのも、いつぶりだろう。映画を観てくれるみんなの笑い声を聞きながら、 この場へ連れてきてくれた古川くんと古谷くんに、心の中で「ありがとう」と言った。
お墓までの長い一本道は、私たちのあとをついてくる子供たち以外に人けはなく、さっきまで歩いていたアンコールワット周辺のにぎやかな観光地の雰囲気から切り離されたように、しんとしている。 風通しがとてもよくて、遠くの景色まで見わたせる、とても気持ちのいい場所に一ノ瀬さんのお墓はあった。
カンボジアへ来る前、一ノ瀬さんの書いた日記や手紙をまとめた「地雷を踏んだらサヨウナラ」を読んだ。1970年代、一ノ瀬さんは内戦中のカンボジアにわたり、報道写真家として危険な戦地で多くの写真を撮っていた。 彼は、共産軍に占拠され、当時まだ誰もカメラに収めることのできていなかったアンコール・ワットを撮影することを渇望していた。1973年の11月、クメールルージュに捕らえられたのも、 アンコール・ワットを目指している途中だった。古谷くんが見せてくれた写真は、そんな一ノ瀬さんが、アンコール・ワットへ続く最短距離の道を撮ったものだった。
彼もまた、26歳の時、カンボジアで亡くなっている。この国が大好きで、家族思いで、仕事に一生懸命で、夢と使命感を持っていた。30年以上前、激しい内乱の中にあったカンボジアで、彼はどんなことを感じたんだろう。 この人のことを、どうしても他人とは思えず、私は「古谷くんのことを、宜しくお願いします」としっかり手を合わせた。
「自分の命が危ないって時にさえ人のことを全力で心配し、役に立とうとしたのが古川和幸っていう人間だった。古川が「生きたい」と思っても生きられなかった今日を生きる人間として、ほんの少しでも周りの人を笑顔にできれば、そう強く思う。」 古谷くんは「共に歩こう」の活動報告をこんな風に締めくくっている。
「誰かの役に立ちたい」、なんて私のこれまでの人生で思ったことがあっただろうか?何不自由ない暮らしの中で、一生会うこともないかもしれない遠い国に住む人たちに目を向けて、その人たちと関わっていこうなんて、思いついただろうか? にしさんは、私にこんな話をしてくれた。「私はカンボジアにいっぱい幸せな時間をもらった。そんなカンボジアに対して、何かしたいと思った。住まなければできないことがたくさんある。だからここに移り住んだ。」 にしさんは、カンボジアで自分にしかできないことを日々実践している。
かずママは、古川くんと古谷くんの意志を継いで、困っている人のところへ飛んでいって手を差し伸べている。お菓子や古着などの支援物資、そして元気と笑顔を配ってまわるかずママは、 「人の役に立ちたい。」と願った古川くんの想いを次々と形にしている。
古谷くんが読んでいた山崎豊子の『運命の人』を最近になってやっと読み終えた。新聞記者が主人公の物語なので、同業で頑張っていた古谷くんも自分と重ね合わせて読んでいたんだろう。 そう思って読み進めていたが、終盤が近づくにつれ、その様相が変わってきて、ドキリとした。 大体のあらすじはこうだ。沖縄返還をめぐる密約のニュースをあばいた主人公は、国家権力によりペンを折られる。天職と信じ、力を注いでいた新聞記者という職業も奪われ、曲折の末、沖縄にたどりつく。 彼はそこでこれまで知ることのなかった沖縄の歴史と現実に直面する。そして、沖縄の人々が抱える苦悩に寄り添い、彼らの声なき声を自分なりの方法で知らせていくことが自分の使命だと決心する。 沖縄の最南端にある平和祈念資料館で、主人公が自分の妻にその決心を語る場面で物語は終わる。2人は戦争で犠牲になった人々の名前がびっしりと書き込まれた刻銘碑を前にしている。きっとそこには、トゥールスレンと同じ空気が流れている。
古谷くんも、こんな人だった。カンボジアに住んで仕事をしたいと言っていた彼は、いずれきっと、この主人公と同じことを志していたと思う。 他者に対して豊かな想像力を持っていた彼は、遠い国に住む人や、亡くなってしまった人が、私たちのすぐそばにいることを知っていた。その人たちにやさしくすること、そしてその人達の役に立つことの大切さを知っていた。 なんで今になって気がつくことばかりなんだろう。この旅の話を、一番話したい人にできないことが、本当に悲しい。自分ではどうにもできないことばかりで嫌になる。八方塞になって、胸が詰まる。涙が出ても、泣くことに何の意味があるんだろうと途方に暮れるような気分になる。
そんな時、私は手を合わせる。悲しい気持ちを静め、これから私がすべきことは何かを考える。古川くんと古谷くんに、「私はこちらでちゃんと頑張ってます」と報告をして、そして、私を支えてくれているたくさんの人たちがいることへの「オークン」の気持ちを伝える。
文:重松恵梨子
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