古谷恵一文集
♪読売新聞社、早稲田大学山岳アルコウ会、幼馴染、共に歩こうファミリーより♪
2011年2月16日。
古谷恵一君が旅立った。
誰がきっかけというわけでもないが、彼との思い出を形に遺したいと言い始め、文集を作ることになりました。
なあ、古谷。お前のことがみんな好きだったよ。
2011年6月 加賀美 学
君との幸せな毎日を ― 加賀美 学 ―
一緒にいた時は当たり前の毎日が大切なものだなんて思わなかった。 今ではもう会えない、話せない。それがとても悔しいし、悲しい。 そんな思いも時間が経つにつれて少しずつ薄れていくだろう。それがたまらなく辛い。 せめてこの気持ちが残る内に言葉にして切り取っておきたいと思い、この文を書く。
彼と一緒にいたのはわずか7年間だった。それでも人付き合いの下手な私にとって彼は稀有な親友だと今でも思っている。 まともに話をしたのは会ってからかなり経ってからだった。 最初の彼の印象は「ノリがいい、お調子者」だった。あの時はこんないい加減そうな奴とは付き合えないと思っていた。仲間とすぐに打ち解け雰囲気を明るく出来る彼に少し嫉妬していた。それが変わったのには特に何かきっかけであったということもない。けれども一緒に山に行き、彼と話をするうちに彼は自分の信念を持った奴だということを知った。冗談をいいながらも仲間をまとめられるその姿に憧れた。そして彼が好きになった。二人だけで一緒に山にも行った。サークルに対する愚痴も言い合ったし、彼がゼミで好きな女の子の話を聞かされもした。まだ慣れない煙草を吸ってみせていたのを懐かしく思う。 あの時彼が勧めてくれた歌を今は聴くたびに胸が痛くなる。
仲間思いの奴だけれども、多分優しいというわけでは無かった。 彼の行動は誰かのためにという自己犠牲的な思いからではなく、彼自身のやりたいことが結果として誰かのために繋がったような印象を受ける。打算が無く本気で行動してくれていたからこそ、彼の言葉は響いた。そして彼の周りに人が集まった。 自分に対して正直に。己の目的に向けて全力で行動できる奴。それが彼だった。 好き嫌いの感情もはっきりしていたからこそ人とぶつかることもあった。また気に入った人に対してちょっかいを出してからかう悪癖もあった。でもそういう時に彼のくしゃっとした笑顔が見られるといつの間にか許せてしまったのを覚えている。 あの別れの場で彼がボランティアをはじめ様々に活動していたのを聞けたが、どの話を聞いても彼は私たちの前にいた彼のままであり、私たちの前にいた彼は常に本音でいてくれたのだと知った。私たちとの関係・繋がりが彼の居場所足りえていたのだと信じられ、少し嬉しかった。
この文を書いているうちにいくつもの思い出が浮かんでくる。 彼に面白い本を聞かれ、いくつかの本を勧めた。彼がそれを直ぐに読み始め、面白かったと言ってくれた時は嬉しかった。だから彼が社会人になる前に私のお気に入りの三冊を貸した。いつか読んで返せよ、と約束した。彼はそれを読んでいてくれたのだろうか?でもどちらにせよその感想を聞くことはもう出来ない。逆に彼が薦めてくれた本の名前ももう聞けない。それを改めて思い知りたまらなく悲しい。何でも無い毎日が大切な、幸福だったことに気付かされる。そしてそれがもう二度とは掴めないモノであることがたまらなく辛い。
一緒にいた日々が私にとっての宝であったように、彼にとっても価値あるものであって欲しいと願う。
なあ、古谷。本当に早過ぎるよ。もう少し俺たちと一緒にいてくれよ。もっと山も一緒に行きたかったし、お前に色々報告したいことだってあった。また今度会った時に、と思って話していないことがたくさんあった。 ようやく俺が一人暮らしを始めたと話したら東京行った時には泊めてもらうわ、と言ってくれていたのに。同期旅行は忙しいから行けないけれど、また皆に会いたいと言ってくれたのに。 雑司が谷のお前のアパートの前で別れてから結局一度も会えなかったな。再会があんな形になるなんて思わなかった。顔を見るまではどこか冗談だと思っていた。お前を見た時、手足が震えてしまった。お前と一緒にやってきたことを思い出して、もうその相手が話せないことを知って、泣くのを止められなかった。 お前を送ったあの日、お前を好きだった奴がたくさん集まった。本当にお前はみんなから慕われていたんだな。今更ながらまたお前に嫉妬しそうだ。
なあ、古谷。俺はお前にとって意味のある人間だったのだろうか。お前が俺にくれた影響のほんの欠片でも俺はお前に返すことが出来ていたのだろうか。こんな泣き言を言ってももうお前は答えてくれないんだな。 ずっと今までの毎日が続くと思っていた。同じように年をとり、いつかまた暇をみては山に登ったりするのだと思っていた。俺は俺の仲間達とこの関係がずっと続いていくと思っていた。仲間へメールする時、宛先にお前の名前を見るたびに少し涙腺がもろくなる。もう二度とは使えなくなるお前のアドレス。弱いなぁ、俺は。きっといつまでも消さないんだろうな。俺はお前にはなれないけれど、少しでもお前に恥じないようにいたいと思う。もう少し強くなれるように頑張ってみる。いつかお前とまた出会う時に胸をはって生き切ったと言えるように。もう泣き言を言わないで済むように。少しずつだけれどもう周りは暖かくなってきたよ。また新しい季節が来てしまう。 お前を忘れることは出来ないけれど、もう悲しむことを止めようと思う。お前もそれを望んでいると思う。これ以上悲しみに囚われ続けることはお前と笑って会うためにはきっと重荷にしかならないから。 お前へ到るこの道があとどれだけ続くのかはわからない。お前はこの道の先でも待ってくれてはいないのだろうね。くしゃくしゃな笑い皺を浮かべながら、きっと先に立ってずっと真直ぐに歩いていくのだろうね。
なあ、古谷。いつかきっと皆追いつくから。それまではちょっと休んでいてくれよ。 また皆で一緒に他愛も無いバカな話をしながら酒を飲もう。だから、待っていてくれよ。 お前と会えて、俺は幸せだった。ありがとう、古谷。ありがとう、親友。
古谷へ ― 尾上 陽祐 ―
お前と初めて会ったのは、たしか古川のばあちゃん家だったね。古川が会わせたい奴がいると言って紹介されたのが古谷だった。古川は古谷にも「会わせたい奴がいる」と同じようなことを言ってたみたいだね。その後予備校で一緒になり、古谷の人懐こさもあって、お互いの友人ともすぐ友達になったね。お互いの大学進学で離れて、しばらく会う機会がなかったけど、再会したのは古川の入院がきっかけだった。その時から俺は、古川と古谷と自分を、どこか兄弟のように感じていた。お互いにあまり多くは語らなかったけど、根っこの部分で同じことを考え、それを言葉なしに共有できていたような気がする。
古川の死があって、古谷と俺との関係はより深いものになった。今思い返すと、古川家を支えるというお互いの思いによって、俺が古谷のことを兄弟のように感じる気持ちはさらに強くなっていた気がする。共に歩こうの活動も古谷が精力的に動いてくれて、俺たちは、さあこれからという時だった。
それが突然・・・
カンボジアも一緒に行きたかったなぁ、ラーメンも一緒に食べたかったなぁ、ホークスの試合も一緒に見たかったなぁ、二人で酒も飲みたかったなぁ、お互いの結婚式にも行きたかったなぁ、もっと色んな話をしておけばよかったなぁ・・・。
この文章を書きながら、ちょっと後悔が増していくよ。 古谷がいなくなってから、色んな人から古谷のことを聞いた。でも、どの人に聞いても、古谷は古谷だった。ちょっといい加減でマイペースだけど、底抜けに明るくて、思いやりがあって、芯が強くて、情に厚い。「ほどほど」ということを知らず、何に対しても全力で、いつも弱い者の味方だったね。古谷がいなくなってから、多くの人が「支えがいなくなった」ということを口にしている。古谷が周りの人に与えていた影響はとてつもなく大きかったんだなぁと思うよ。
俺とお前が二人でいるときは、お互い饒舌というわけではなかったけど、俺にとっては、常に自分が「素」でいられる存在だった。2010年の3月、「これでも片付いたほうだよ」という、本とか、何とかが積み重なった雑然とした部屋で、二人きりで過ごしたね。お前と二人きりで過ごした時間はあれが最後だ。いつものように憎まれ口をたたきながら再会して、冗談ばかり言って、お前の夢の話とか、好きな本の話とかしているうちにいつのまにか眠っていたっけ。俺たちの関係はそんな風に、何となく始まって、終わりらしい終わりはないものだと思ってるよ。
古谷、最近俺は、弱気になった時やしんどい時に古谷と古川が両肩をグッとつかんでくれているイメージをよくするよ。そんな時はパワーがみなぎってくる気がする。
これから俺ができることは、なんだろうか。まずは、俺自身もう少し強くなって、お前が残していった人と支え合いながら共に歩こうの活動をがんばっていくよ。そして、こんなに立派な人間がいたことを、生徒に伝えていこう。古谷みたいな高い志を、生徒が持つきっかけになれたらいいなぁ。
さっきも言ったけど、俺とお前の関係の中で、始まりらしい始まりも、終わりらしい終わりもないと思ってる。お前と次会うのはいつになるかわからないけど、とりあえずまたな。古川にもよろしく言っておいて。じゃ、またな。じゃ、また。
古谷君へ ― 遠藤 信葉 ―
古谷君は私の二つも後輩のはずなのに、歳が一つしか変わらないからか、敵(!!)が同じだったからか、色んな話をしたよね。記事の読み合わせをしたい時、私の背後にさりげなく現れて振り向くのを待ちかまえていたよね。古谷君の読み合わせがあまりに慎重で、しつこいので、三回に一回くらい気づかないふりをしようとすると、遠慮がちに「遠藤さん今空いてますか」と声を掛けてきてた。からかって悪かったなと懐かしく思いながら反省しています。
私は古谷君が赴任してくる前の二年間、二人の先輩に頼り切っていました。仕事上の悩みも相談もすべて受け入れてくれる先輩が一度に異動し、よりどころを失ったときにあなたが入ってきてくれました。本来なら先輩らしく、色々な相談に乗り、適切な指導をしなければならなかったのだけれど、私はそれもできず、古谷君に弱音を吐いたり、愚痴ったりしてばかりいた。あなたはいつも笑ってうなずくばかりで、決して自分の口から人の悪口を言ったり、愚痴ったりすることはなかったね。そんな古谷君の優しさに甘え、先輩を失った自分の心に空いた穴をあなたに頼ることで埋めていた様な気がします。
いつの間にかみんなの心に入り込む、存在自体が居心地がいい、それが古谷君だと思う。そんなあなたのことを佐賀の記者もあなたに取材を受けた人もみな愛してやまなかった。私は担当が違うので、日中のあなたの仕事の様子を目にする機会はなかったのだけれど、サツ担の他者の記者は会う度に古谷君の話をしていたよ。
あなたが居なくなって、重松さんを励まそうと声をかけると、十人以上がすぐに集まったよ。古谷君とあんなばかな話をしたとか、あの取材はきつかったとか古谷君と過ごした日々を「あ・うん」で語りあいました。ある警察官からは、「最近の記者の中にはなかなかいない、人との付き合いを大事にするいい記者になりそうだった。いい子だった」と言ってもらいました。こっちがちょっぴり嫉妬するくらい褒められていたよ。
この一ヶ月、あなたの高い志を引き継ごうと、支局のみんなの士気は高まっています。本当は今もまだとても悲しいし、喪失感や悔しさは言葉では簡単には言い表せないのだけれど、あなたが生きていたという事実、志半ばで命を落としたという事実を私の記者人生の糧にして、あなたに認めてもらえる記者になりたいと思う。それからたまに、重松さんと古谷君のことを話ながら楽しく飲ませてもらおうと思っているから、その時はよろしくね。今まで本当にありがとう。
古谷君へ ― 今村 福一 ―
そんな中、和幸さんの追悼式をやろうという話が持ち上がりました。というのも、古谷君は和幸さんのお葬式のときはラオスに滞在していたため参列することができませんでした。そこで、もう一度追悼式という形で和幸さんを弔おうとなったのです。僕はその追悼式の打ち合わせで古谷君とやっと出会うことができました。当時の古谷君の印象は、笑顔がとても良く似合う方で、思わず兄ちゃん!と呼びたくなるほどでした。 それからは、北九州に帰ってくると山路のばあちゃんのご飯を食べたり、僕らが東京に行ったときは、スミちゃんパパにおいしい中華をご馳走にもなりましたね。あのときは満腹で眠くなったのか、古谷君は帰りの車中で爆睡してましたよね。つい笑ってしまいました。ごめんなさい。就職して佐賀に行ってからも、佐賀にちよちゃん・ちよママと一緒に会いに行ったりもしました。
そして、今年の正月も、いつものように山路のばあちゃんのご飯をつつきながらビール片手に佐賀での話しをしましたね。彼女ができただとか、仕事が少しずつ楽しくなったことなど、たくさん話してくれました。これが、古谷君と話す最後の会話になるのですが・・・。
こうして古谷君との思い出を振り返っていると、やはり忘れてはいけないことがあることに気づきました。それは、“共に歩こう”を名づけたこと、そして、僕らとカンボジアとを結びつけてくれたことです。前述したように、古谷君は大学時代に東南アジアの遺跡群のフィールドワークのなかで、カンボジアに滞在していました。その縁で僕らもカンボジアに行くきっかけとなりました。もっといえば、現在の共に歩こうの活動の方向性を決めたきっかけでもあると思っています。ということは、古谷君がいなかったら、今ごろ僕らは共に歩こうとして活動していなかったのではないかと思います。そういった意味でも、古谷君が僕ら共に歩こうに与えたものは大きなものであったと感じます。 もしも、人と人との出会いが偶然なものだとしたら、僕はとても幸運だと思います。なぜなら、古谷君という、北九州の兄ちゃんに出会えたからです。
兄ちゃんはたくさんのものを残していきました。そのひとつは“共に歩こうファミリー”の活動を通じて、カンボジアの子供たちの笑顔に出会えたこと。また、仲間の大切さを再確認できました。だからこそ、そんな古谷君の名づけた“共に歩こう”を大事に守っていこうと思います。 これからも一生懸命生きていくよ。ありがとう。
古谷君へ ― 古川千代 ―
そのよく耳にする“古谷くん”と、ようやくきちんとした形で会えたのは、2004年の夏。東京の大学へ進学したお兄ちゃんに会いに行ったとき、東京のレストランで古谷くん、お兄ちゃん、お母さん、すみちゃん、私、私の友達の6人でご飯を食べたよね。その時、腕にキティちゃんの時計をしていた古谷くんを見て、「ユーモアのある人だなぁ、おもしろそう(^^)」と勝手に想像していました。その時の印象がまさに、私にとっての古谷くんの第一印象!それからまた古谷くんと会うことはあまりなくて、久しぶりに会ったのはお兄ちゃんの入院していた病院でした。東京から駆けつけてくれて、何日もお兄ちゃんのそばにいてくれて。お兄ちゃんにとって古谷くんは本当に大切な友達で、大好きな大好きな友達だったんだろうな、と心から感じたよ。古谷くんはお兄ちゃんのことをとても大切に想ってくれていて、それがすごく伝わりました。
そんなお兄ちゃんが天国へ行ってしまった後、古谷くんは、残された私たち家族を大切にしてくれたよね。
「俺が千代ちゃんの兄ちゃんになる」
その言葉は本当に心強かったし、頼りにしてた。私のことを「ちよちゃん」と呼んでいたはずの古谷くんが、お兄ちゃん役をしだして、いつからか「ちよ」と呼ぶようになっていました。小さなことだけど、本当はそれがすごく嬉しかったり、実は心の中でニタリとしていたり・・・
去年の2月にはカンボジアに行ったよね。直前まで古谷くんが来てくれるって知らなくて、着いたその日の夜に「今ホテルのフロントにおるよ」って連絡が入ったときは本当に驚いたよ。それからの活動は古谷くんとお母さんと私、3人!クメール語を話す古谷くんを垣間見た時は「おぉ、何ち聞きよるかは分からんけどすごい!」と尊敬したし、英語に自信がなくてルームサービスを躊躇する私に代わって、サッと電話をとり英語ですらすらっと注文してくれたときの古谷くんは、本当にかっこよかった!古谷くんが来てくれてなかったらどうなってたんだ!?と思うけど。でも本当に助けられたよ。
改めて考えると、最初にカンボジアに行くきっかけを運んでくれたのも古谷くんやね。そして西さんやまあち、色んな人との出会いを古谷くんは運んできてくれました。本当に本当にありがとう。
3月に、私とふくちんが東京に遊びに行った時には、すみちゃん親子とおいしい中華を食べに栃木まで行ったね。東京タワーで待ち合わせした時のことは今でも忘れられません。古谷くんから「ちょっと遅れる!」と連絡が入った数分後、またメールの着信音が鳴って。「着いたー!」とか「あと何分!」とかかなと思ってメールを開くと、そこには本文はなく、東京タワーの写メが一枚。本当に「えっ!?」と思ったけど、すみちゃんとふくちんとお腹かかえて笑ったよ。キティちゃんの腕時計に続き、「やっぱりユーモアのある人だ」と思った瞬間だったよ。 お兄ちゃんがいなくなってからの古谷くんとの時間は、すごく濃かったなあ、と思う。「共に歩こう」という名前を残してくれた。素敵な素敵な仲間を残してくれた。古谷くん、私のお兄ちゃん役をしてくれてありがとう。ふとした時にかかってきた時の、電話越しの古谷くんの声がずっと頭に残ってて、離れません。古谷くんから届いたメールも消せずにいます。全部保護しちゃったよ。こんな手紙書いてると、涙が出ちゃってどうしようもないよ。
古谷くん、私は千里ちゃんと仲良しになりました。お兄ちゃんと古谷くんがつなげてくれた縁だと思うから、これからもずっとずっと、その縁を大事にしていきたい。 共に歩こうを作りあげ、またここまで引っ張ってくれて、本当にありがとう。あとは任せてね!この地では私たちが頑張るから、空から見守っていてください。そしてたまに手を貸して下さい! 住む場所は違うけど、これからも私たちと、共に歩いてね。
古谷へ ― 菅野 慈 ―
お互い大学の春休みで帰省していて、いつものように小倉の街でお酒を飲み、ほろ酔い気分で約40分の道のりを家に向かって歩きながら話をしていました。たぶん小中学校の同級生たちの近況や思い出、そんな他愛のない話だったはずです。ふと私たちの付き合いが10年を過ぎていることに気がついたあなたが、昔からの友達っていうのはやっぱり大事だよね、と月並みな感想を述べて、しばらく黙り込んだ後に突如として「これはもう、幼馴染だ」と言い切ったのです。私は内心で「幼馴染っていうのは宣言してなるものでもないだろう」と思ったけれど「そうね、幼馴染やね」と返事をしたのです。それはあなたの口調が妙にきっぱりとしていて異論をさしはさむ余地がなかったせいもあるけれど、なにより「幼馴染」という温かい響きが嬉しかったからでした。
小学校三年生で同じクラスになった私たちが親しくなったきっかけは、シャーロック・ホームズの推理小説でした。図書の時間にあなたがそれを読んでいるのに気づいた私が、うちに全集があるよ、というようなことを言い、読みたいと言ったあなたに電話帳よりも分厚くて重い、その本を貸してあげた時以来、私たちは頻繁に話をするようになったのです。
あなたの思い出を文章にしようと、この数週間、真剣に記憶を辿りました。中学一年生のとき、おそらくあなたの生まれて初めての女の子への告白を手伝って失敗したこと。次に好きになった女の子とのデートプランを一緒に考えさせられたこと(そしてやはりふられたこと)。中学二年生のときに一方的に怒ったあなたが理由も言わずに一年近くも口を利いてくれなかったこと。私の唯一の得意科目の国語だけは試験の点数で勝てなくていつも悔しがっていたこと。本屋で待ち合わせをしてお互いにどの本が良かったとか悪かったとか言い合ったこと。私の男の趣味が悪いと滅茶苦茶に馬鹿にされたこと。仕事を始めて心身ともに疲れ果てた私を見て「その仕事が向いてないなら無理しなくていい。お前にもっと合った仕事がある」と言いながらも助けてくれたこと。読売新聞社に内定をもらってとても喜んでいたこと。その日のうちに連絡を受けて、あなたが希望を叶えられたことと、九州に帰ってきてくれることを私がどれだけ喜んだか。 お互いに連絡がまめな方ではないから、日常的に近況を報告しあうことはしなかったけれど、私の生活には常にあなたの存在がありました。大袈裟な言い方をするなら人生に。たとえば仕事でくたびれて、何もかもどうでもいいと感じてしまうとき「きっと古谷はこんな姿勢の人間を嫌うだろうな」と、自棄になりそうな気持ちをこらえて背筋を伸ばし、また仕事に向かっていること。本屋であなたが好きそうな本を見つけると、自分では興味がなくてもページをめくってしまうこと。知らなかったでしょう。遠くにいても、連絡をしなくても親密だと言い切れる友人を得られたこと、いつも幸運だと感じていました。
2月16日の夕方、出張先の沖縄で、あなたのお母さんからもらった電話を切った後、手近にあったペンや書類を車の中に投げ散らかして、私は狂ったように泣き喚きました。お互いにそれぞれの人生を元気でやっていければいい、それだけの望みすら叶えられないなんて。見たいもの、行きたい場所、書きたいこと、したいことをたくさん抱えたあなたが、死んてしまうなんて。そして私はあなたを亡くしてこんなに苦しくても仕事のために車を走らせて次の場所へ行かなければならないなんて。その時、私は心底、この世界をろくでもないところだと思いました。 ですが、あの日から二ヶ月以上が過ぎて、ひとつわかったことがあります。それはあなたが変わらずに私の人生にいること。あなたに言いたいことや聞きたいことができた時、組んだ腕をテーブルに突いて、自分の言葉を確認するみたいに細かく頷きながら答えてくれるあなたの姿が頭に浮かぶのです。それは私たちが出会ってから重ねてきた会話や文章のやりとりが、其処彼処に確かに残っているからで、それらを与えられたことをありがたいと思えるようになってきました。亡くしたことよりも出会えたこと。そんな考え方の方がすばらしいと思うんだ、ときっとあなたなら言うでしょう。
伝えたいことは尽きません。生きてあなたに会えないことは、やはりどうしようもなく寂しいし、苦しい。きっとこれからも声に出さずにあなたに話しかけ続けるのでしょう。 でもとりあえず、今日のところはこれでおしまいにしておきます。
古谷。私を幼馴染と呼んでくれたこと、とても嬉しかった。本当に、本当にありがとう。
古谷恵一君との思い出 ― 齋藤 智樹 ―
初めて古谷君と会ったのは2004年の春、早慶戦の時。 神宮外苑、入場待ちで行列に並ぶアルコウ会のメンバー合流した時である。 当時2年生の佐藤衛君が「トモキさん、活きのいい1年生がいるんですよ!」と嬉しそうに息弾ませて私に真っ先に紹介してくれたのが古谷君だった。 人懐っこい笑顔。マモルら先輩の無茶ぶりにも楽しそうに応える。野球好きでホークスの応援歌を自慢げに歌う。早慶戦の試合結果は覚えていないが、彼の姿はよく覚えている。 いつだったか、彼と芳賀君とほか何人かでカラオケに行った。そこで彼に教わったのがGoing Steadyというバンド。そのバンドの「銀河鉄道の夜」と「もしも君が泣くならば」という2曲を古谷君が熱唱していた。ひたむきで力強く、真っ直ぐな歌詞と曲調はそのまま彼の人柄を表しているようで、すぐに引き込まれた。 いつしか私も多くの皆さんと同様に彼のファンになっていた。 2009年3月のWBC予選で、日本が韓国相手に14対2で大勝した試合を一緒に観戦できたのも良い思い出。この時も野球好きの彼のボルテージは最高潮だった。 一番記憶に残っているのは、留学する古谷君の送別会に参加した時のこと。居酒屋わっしょいでの席。彼は涙していた。持ち前の人間性ですっかりアルコウ会の中心メンバーになっていた彼が、留学での幹事会での中心的役割を断念せざるを得なかったこと。アルコウ会を大事に思う気持ちが切々と伝わり、私の胸も熱くなった。嬉しかった。 人懐っこい笑顔の良く似合う、熱く、真っすぐで純粋な男。素敵な奴だった。 もっと彼と語り合いたかった。一緒に山にも行きたかった。 でも古谷君、君のやりたいことはもっともっと一杯あったのでしょう。君の分まで、私たちアルコウ会の仲間は精一杯生きて、そしていつかまた、君と笑い合える日を迎えたい。 今はただ、古谷君のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
古谷恵一先輩へのメッセージ ― 井上 英 ―
卒業式の日にいただいた言葉です。 先輩は大きな夢をもっていたのですね、その夢を継ぐ人は必ず現れると思います。 私も自分の夢を持ち、その夢の為に一日一日を大事に生きてゆきます。
今まで懸命に過ごされた分、ゆっくりとお休みください。 また、お会いできるその時まで。さようなら。
恵ちゃんを偲んで ― 田室佐保里 ―
恵ちゃんと初めて会ったのは、アルコウ会の新歓のBBQでした。とっても酔っぱらってましたね。なんだか騒がしい人だなと思った印象があります。 とにかくいつも笑ってたよね。くだらない話ばっかりして、みんなを笑顔にしてたよね。かと思えば、饒舌に夢を語っていたね。とにかく人に好かれてた。みんな恵ちゃんを慕ってました。
恵ちゃんは自分のやりたいこと、夢、考えをもっていつも努力してました。いつも熱い思いを持って行動していました。 それに比べて私は、夢があるわけでも。特別な努力をするわけでもなく。熱くなることを恥ずかしいと思うようになっていました。会社の人たちはみんななんとなく働いてるし、現状を変えたいと思ったってなにも変わらない。なにもしなくていいんだ。なんとなく過ごせばいいんだ。逆らったって疲れるだけじゃないか。熱くなったって冷ややかな目で見られるだけじゃないか。おかしいと思うことはいっぱいあるけど、今の自分で良いとは思わないけど、何も行動していなかった。 そんな自分がとっても恥ずかしい。恵ちゃんは一生懸命生きてたのに。 私が今できることは、恵ちゃんの死を無駄にしないこと。恵ちゃん、私、努力してみようと思う。熱くなってみようと思う。一生懸命生きてみようと思う。もう、なんとなく毎日を過ごすのはやめます。私がこんな決意をしたところで、努力をしたところで世界は対して変わらないかもしれない。でも、恵ちゃんは私たちに大切なこと、いっぱい残してくれた。私だって、なにかを残せるかもしれない。
大切なこと教えてくれてありがとう。これからもいつもの笑顔でみんなを見守ってください。そして、ダメ出しもしっかりしてね。 恵ちゃん本当にありがとう。 恵ちゃん、またね。
古谷へ ― 柳田 俊一郎 ―
「将来、自分はあれです。ジャーナリストとかになりたいんです。国際的なです。だから、僕は九州から早稲田に来たんですよ。」
「早稲田大学って、ほらあれじゃないですか。出身のジャーナリストとかライターとか多いじゃないですか。だから、早稲田なんすよ。」
「世界も見たいんですよ。だから国際教養学部なんですよ。まだ僕はこの学部の一期生ですけどね。うちの学部は、英語『で』学ぶ学部なんですよ。英語『で』です。『を』じゃないですよ。それがいいなと思ったんですよ。ここで勉強して、どっか海外留学もしたいと思っているんですよ。。」
「まあ勿論、色々と(将来の)道はあると思うんで、いっぱい考えたいとも思ってます。東京で、色々経験したいんですよね。」
それから約5年8ヶ月後、2009年12月9日の梅原夫妻の結婚式の三次会の席で、あの時のように深夜の飲み屋のテーブルで向かい合いながら、マスメディアとお互いの将来について語りましたね。私は社会人5年目。君は読売新聞社への就職を間近に控えていた時でした。その時、君はとても真剣な顔をしていました。
「留学したり本読んだり、院で勉強したりして、色んな(将来の)道を考えましたけど、やっぱりジャーナリストがいいと思ったんですよ。」
「ほら、アメリカとかってあれじゃないですか。新聞社がどんどん潰れたりしてるじゃないですか。ネットに押されてしまって。この流れは、もうどんどん進むと思うんですよ。だから、きっと日本も将来そうなると思うんですよ。」
「だから、自分は読売で新聞記者として修行してジャーナリストのノウハウを身に付けたら、フリー(のジャーナリスト)を目指したいと思うんです。世界中あちこち行って、フリーで色んな事を伝えたいんですよ。早く独立して、フリージャーナリストになって、色んな事書いてみたいんです。本も出してみたいです。」
「(情報を伝える)媒体は変わっても、伝える人間が要らなくなる訳ではないですからね。むしろ、フリーでもネットとかで伝えやすくなるんじゃないかと思ってます。」
私はその時、君を改めて強く尊敬したのと同時に、密かに嫉妬心も覚えました。きちんと自分の目標と行動計画を定め、努力し実践してきている君の姿に対してです。私は君のように、努力を積み重ねる生き方をしているとは思えなかったからです。 私は、その時に、お互い頑張ろうなと君に言いました。君は、頑張りましょうと言ってくれました。同時に、私は心の中で、こいつに負けたくないなと思いました。負けないように、自分も努力しようと思いました。 そしてその場で、私はまだ九州へ行った事が無いと言うと、君はあの笑顔でこう言ってくれたのも良く覚えています。 「小倉いい所っすよ。九州来て下さいよ。是非見て貰いたいですよ。案内しますから。」 それが、君と私の最後の会話になりました。
私が知る君の最も尊敬している点は、自分の将来への希望をしっかり持ち、その為に努力を惜しまない姿です。君の色んな事を吸収してやろうという貪欲さと、自分を成長させようという意欲は、本当に素晴らしいと思っています。君のそんな姿は、これまでに君が関わってきた沢山の人々に影響を与えてきた事でしょう。 そして、私も君から大きな影響を受けた多くの人達の一人です。 君から学ばせて貰ったものを、これからも大切に活かしていきたいと思います。
古谷、本当にありがとう。
古谷さんへ ― 御子柴 英郎 ―
悪天で連絡できなかった次の日に電話するとものすごく心配してくれたり、
他の夏合宿の隊の状況を丁寧に説明してくれて、
励ましてくれたり、冗談を言って笑わせてくれたり、
テレフォンカードの減りが早いから、
とすぐ僕が電話を切ろうとすると文句を言ったりして・・・
少ない時間の中で、古谷さんからは沢山の言葉と力をいただきました。
最後、完走したときに古谷さんの、 「御子柴、泣いてもいいんだぞ。」 って言葉、今も鮮明に覚えています。 あれで号泣しちゃいましたから。
あの夏、 暑い暑い夏、 電話越しですけど、 山と地上ですけど、 古谷さんと一緒に歩いたこと、 僕は一生忘れませんよ。
ある日のあめのうた ― 辻 裕香 ―
もう僕たちは歩けない
振り向けばきみは
肩の重荷を気にしてる
手をさしのべたかったんだ
だけどそれはできなくて
僕は前を見て進むだけ
あると思っていたものはそこにはなくて
風は真っ白になって
すべてものは倒れそうになる
だけどきみが笑うから
(真っ暗闇で寂しくたって)
きみがそうやって笑うから
僕も笑うこれからも
きみのように笑うんだ
いろいろな思い出をありがとう ― 佐々木 力哉 ―
君の顔を頭の中で思い描いてみると、くしゃくしゃになった笑顔が思い浮かび、そのイメージが頭から離れなくなります。真剣な顔、悲しい顔、怒った顔、色々な顔をこれまで見てきたはずです。そんな顔も思い描いてはみますが、その表情もやがて笑顔に変わっていきます。
2004年6月、もう7年も前の事になりますが、甲斐駒ヶ岳と仙丈ヶ岳に一緒に登ったことが思い出されます。僕のアルバムにはその時の写真が何枚か残っています。後生大切にしたい写真です。当時1年生ながらメンバー1人1人に気をつかってくれて、上級生としても頼もしく感じていました。そういった人との関わり合いも含め、山に登ることを純粋に楽しんでいる表情がそこには写っています。甲斐駒ヶ岳からの眺望に感嘆して「ヤバイ!!」とか言って一緒に笑ったことは忘れることのできない思い出です。
最後に会ったのは、3年程前でしょうか、新宿でだったと記憶しています。スコットランド留学から帰国後初めての再会でした。向こうでの活動はブログを見させてもらっていたのである程度こちらでも把握しており、持ち前のバイタリティーと人なつっこさでどんどん色々な経験を重ねて成長していく様子に関心していました。久しぶりの再会で話は弾み、スコットランド留学時の思い出、例えば中村俊輔の試合を見に行ったとか、ドイツのオクトーバーフェストのビールが「ヤバイ!!」とか楽しい話を聞かせてもらいました。西部新宿駅近くのラーメン屋で2人で豚骨ラーメンをすすって、ひとしきり話した後、「じゃあ、また」と言って別れました。ラーメンを必死で食べている姿は留学前とちっとも変わっていませんでした。
シンプルな「いい奴」という表現がよく似合います。人に対する優しさ、真摯さを持っていたと感じます。強さ、逞しさも感じます。僕もその人間性から見習う点がとても多かったです。これまで色々な人に良い影響を与え、色々な種を蒔いてきたのだと想像できます。その人間性は誰にでも愛されてきたといっても過言ではないでしょう。もちろん多くの苦労とそれを乗り越えるための努力があったことは知っています。でも僕の心の中ではいつも変わらず笑っています。その印象的な笑顔は他の多くの人達の脳裏にも焼きついているのではないでしょうか。
色々な思い出、本当にありがとう。でも、この文章を書いているうちにまた別れを実感できなくなってきたから、やっぱりいつものように、じゃあ、また。
けいちゃんとの想い出 ― 福田 充 ―
「なんかファンキーだな」 それが俺のけいちゃんへの第一印象。部室で初めて見たけいちゃんは一見おしゃれに見える帽子を被って陽気に笑ってた。「これからキャッチボールするけど一緒にやる?」といきなり言われて戸惑う俺をよそに颯爽と戸山公園に飛び出してったね。次の日からは早速一緒にキャッチボールをしたっけ。
まずぱっと頭を浮かぶのは一年生合宿。北八ヶ岳の集中合流でけいちゃんがリーダーだった。みんな同じ一年生で先輩もいないし、自由気ままに振舞っていた俺ら。でもけいちゃんだけははしゃぐ時ははしゃぐけど、諦めるところはきちんと諦めた。バカもするけど根はマジメ。歌を歌っていたかと思うと、トップがルートを見失ったらすぐに前に出てルートの確認をしたり。あさっての方向見てるかと思いきや、少しでもペースが遅れてる人がいると誰よりも早く気にかけたり。相当プレッシャーや不安もあっただろうけど、けいちゃんがそれらを全部背負ってくれたおかげでとても楽しかったよ。ありがとう。
わっしょいでひたすら飲んだ挙句終電を逃し、当時直樹とルームシェアしてた家まで一緒に歩いて帰ろうとしたこともあったね。結局中井でギブアップして始発を待ったけど。
同期旅行では他のお客さんそっちのけで温泉ではしゃいだね。けいちゃんと一緒だといつも楽しかったし、あっという間に時間が過ぎた。
芳賀さんと馬場で飲んだある日。就活を控えて自己分析のために「俺の長所と短所って何やと思う?」って聞いてきたけいちゃん。短所は見つけるのが難しくて結局無理やり答えた気がする。でも長所はすぐにたくさん思い浮かんだよ。その中でも一番の長所を「けいちゃんは絶対に人を裏切らないし見捨てない」って俺は答えた。文字通り誰とでも分け隔てなく付き合うし、相手ととことん真剣に向き合う。先輩から可愛がられるのも、後輩から慕われるのもきっとけいちゃんのそんな一面がそうさせるのかなって思うよ。
いつの日か、「同期であの一年生合宿で歩いた北八ヶ岳にまた行きたいね」と話したの覚えてる?忘れたとは言わせないよ。俺らはまた同期で北八ヶ岳に行くからさ。羨ましいでしょ?来たかったら来てもいいんだからね(ツンデレ)!池のほとりに張ったテントの外で何時間もたわいも無いバカ話をまたやろう。けいちゃんがいないと盛り上がらないよ。「お待たせ~」なんて言いながらあのくしゃくしゃの笑顔がまた見たいな。